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単行本で買って読まないままの伊坂幸太郎が積み上がりようやくまずは『ガソリン生活』を読んだらうっかり泣けた。 [思想(仮)]

事件が起きたときなんかにマスコミがその当事者の近所の住民とか街頭とかでどう思うか聞くじゃないですか。

たとえば、

いつも散歩していたら挨拶してくれて~(良いヒトでした。

みたいなね。

あれはなんで自分に置き換えてみないのかなと思うんですよ。

だって不倫騒動には、

わたしがあの奥さんだったとしたらありえない!

みたいな、

もしも宝くじで一億円当たったら~

みたいな、

もしも、が、好きな風潮な世の中じゃないですか。

だから、

わたしはいつも散歩していてヒトに会ったら挨拶するんですけれど、そんなわたしがもしも殺されたら自分で可哀想だなと思うし、周りにも可哀想だなと思われるであろうし、いかにわたしが良いヒトなのかということをいま実感しています

みたいなことを言うヒトがいても不思議ではないと考えたんです。

それと同様に、

同じ子を持つ親として~(可哀想
や、
同じ年の孫がいるので~(可哀想

という前置きを付ける人間も、被害者側になったときのことしか言わないし、そっち側に置き換えてしか考えてなくて、加害者側になったときのことを考えてもいいんじゃないかというか、なんか、わたしがなるとしたら被害者側にしかなりえないと思っている時点でバカじゃないかというか。

なのでたとえばだから、

同じ子を持つ親としてもし我が子が将来的に犯人に育ったとしたら出頭を促しますね

とか、

同じ子を持つ親としてはわたしのこどもは不細工なので誘拐されないと思いますよ!あはっ!だから誘拐されたら不細工なのにありがとうと言いたいですね!!あはっ!

とか、

同じ年の孫がいるので、会社の金を網棚などに置き忘れないようにと言いたいですし、また、わたしが犯人だったとしたら詐欺だとバレるからレターパックで送らせないようにしたいですね

みたいな、犯罪テクも時折垣間見せてみたり、

餅を喉に詰まらせないように小さく刻んでから食べさせています

と、言うのではなく、

餅を喉に詰まらせて死なないようなオトナにさせたいです

と、言ったほうが、

投票したくなりますよね。


ワケわからないですけれど。